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4:19 この構図でこの写真がとれるスポットは一か所しか存在しないのですが、レアですね。この場所が使えて、かつ551系の写真が撮れた期間となると昭和53年~54年あたりしかないと思います。
9:06 広告「早稲田ゼミナール」これは高田馬場ホームかな?お隣も予備校ですし。早稲田のゼミナール/学院/予備校。このうち早稲田予備校はなぜか名古屋にもありました。そういえば代々木も有名なゼミナールに学院もありましたね。
導入予定の中古車両は総合車両製作所のサスティナではなく、車体は無塗装、制御装置はVVVF架装のサスティナブルな車両でなないですか?
西武所沢工場と言えば関東鉄道向けの気動車魔改造も請け負っていたような覚えがあります。
よくこれだけの古い写真をお持ちでいらっしゃいましたね。
西武鉄道の戦後の歩みが、良くわかる映像でした。今日の西武の隆盛はこのような歴史の上にあるのですね。
足回りが吊り掛けの最終期のモーターと吊り掛け軸バネ台車だが車体が半鋼製車体の7800系と更新7300系と西武吊り掛け赤電比較したら果たして
@@tike2435 様、東武7800はその後車体更新して5000系列になりましたから西武とどっこいどっこいでは?西武にはなかった吊りかけ冷房車でしたし。ある意味西武よりも吊りかけを第一線で使っていたともいえます。
横浜線や相模鉄道本線や南武線みたいな感じか西武鉄道池袋線は
模倣の使い方が気になるなぁ悪意はないのだろうけど…なんかイラっとしたな
当時の所沢工場は銚子電鉄の車輌改造上信電鉄の車輌新造、南海気動車の扉増設改造などしていました。
関東鉄道の魔改造車も所沢工場の作品ですね。
国鉄好きの西武さん、とはいつぞやの鉄道雑誌の記述。
西武の20m級4ドア車である63系受け入れ拒否の話はかなり尾ひれがついています。西武の20m車導入は1950年のクハ1411形からで、それまでは17m級の車両が入線しておりました。本線系統でも地方鉄道法準拠2,744mm幅の車両限界であった当時2,800mm幅の焼け電を導入する改修すら大工事で、同じ63系電車を受け入れた東急は地方鉄道法規格の旧自社線内では走行できず、同じく名鉄は旧愛電区間に使用を限定されました。20m車を走らせる地上設備改修にはさらに4年掛かりとなり、63系2両を受け入れる計画を蹴った上で代替として17m級の50系2両を受け入れたに留まりました。第一、63系受け入れ後見返りに車両製造面で優遇を受けた東武が40両入線11両放出、山陽で同20両、4両と投入数と放出数は一致しておらず、工場設備投資と復旧費を持った西武よりも身銭を切らぬ姿勢でありました。63系自体も4扉であったことから後に3000系を投入するほど3扉に愛着のある西武には持て余す車両でした。1953年国鉄の事故車3両を復旧、電動車1両を自力で製造し初代401系として63系電車を導入しましたがこの4両が最後で、72系相当の更新を受ける事もなく支線区に押し込まれたうえで1973年早々に鬼籍入りしました。車両放出に対する懸念はあったにせよ、西武としては20m4扉2,800mmの63系電車という存在がお節介だったのです。
63辞退はありましたが、借受モハ50を譲渡してもらったことはあります、中古品だから車両供出はなかったようです63新車や運輸省規格型を入れたら見返り供出しないといかんかったし
昭和40年代、相鉄が国電の払い下げ車の2000系をアルミ製車体の2100系に改造する際に余った車体を所沢車両に持ち込み、手持ちの機器を組み合わせて伊豆箱根鉄道(大雄山線)や三岐鉄道等に譲渡してました。その頃はまだ西武にも旧国鉄車両の371系等も在籍しており、相鉄2000系自体、1度東急車両や東横車両で車体を更新していました。
三岐鉄道150形は 所沢工場製の新製車体を載せた物と 相鉄2000系の旧車体をリサイクルした物がありましたね。同鉄道には 所沢工場で小田急2100形の車体をリサイクルした120形もあり 1970年代から 西武とは縁のあった会社でした。
@@toriri-service さん三岐鉄道150形の車体新造車は、昭和47-48年製だったから平成4年での廃車はちょっと勿体無い気もしました。とはいえ、大手私鉄の中古車もふんだんにあったから、あえて大きな改造してまで譲渡先を見つけるほどには至らなかったのでしょう……
久しぶりに見た、永久保存版と言ってもいいような秀作動画です。西武鉄道の戦後の稀有な邂逅の軌跡をまとめています。日本の鉄道界に、独特の大きな足跡を残した、かつての西武所沢工場は、所沢駅の西200Mくらいのところにありました。所沢駅からこの工場まで、引き込み線が伸びていました。そのちょうど中間に、埼玉県道337号線所沢停車場線の道路があり、2000年頃のつい最近まで、その交差部には踏切がありました。よくここをクルマやバイクで通り過ぎた覚えがあります。現在は、工場も踏切もなくなりました。工場跡は更地になり、地元では再開発に沸いています。どんな施設ができるのか楽しみです。西武線の電車の連結面の扉のわきの上部辺りには、「西武所沢工場」の銘板がついている場合があり、往時の偉業を偲ぶことができます。もしこの工場が、今も存続していたならば、当時と同様の木造の吊り掛け車のレプリカ版でもつくって走らせてほしい なんて思ったことがあります。西武鉄道開業100周年以上でもあるし、ひと昔前までの西武鉄道には、多くの木造の吊り掛け車が走っていたからです。
ありがとうございます。工場があった頃は他社の車両(小田急)や西武車両の中古譲渡車両(流鉄、近江鉄道?)が留置されている写真なども見かけました。跡地はショッピングセンターができるようです。www.watch.impress.co.jp/docs/news/1451325.html
西武所沢で製造(扱い)。更新工事で魔改造。それを近江で更に魔改造、、、今は昔話。
今や、新造車おろか、かつて箱根戦争で直接的に争った小田急(間接的には東急)のお古を譲り受けるまでの転落っぷり。
やっぱ西武は凄いな~
懐かしいです♪高校1年の朝の通学時、授業に普通に間に合う池袋8時前発の準急だと、確か保谷で切り離す2両が木の床のボロだったなぁ。アレは何系だったんだろうか・・・駅から学校までダッシュすれば何とかの、池袋8時過ぎの準急だと、冷房搭載の101系でだったなぁ。夏場は非冷房→普通に徒歩か、冷房→ダッシュで悩んだなぁ~。昭和50年前半の話しです。😄
クハ1411だと思います。動画の初めの方の『ヤケ電』由来の物と国鉄木造国電の台枠(シャシー)をベースに所沢工場で 戦前形国電と同じ車体を拵えた物の2種類がありました。運転台が貫通扉よりも左側 片隅にしかなかったでしょう?
西武が目を付けたのは戦災省電に加えて木造省電も。こちらは老朽化が酷かったので、二束三文で大量に入手。運用に差し支えないレベルまで整備した上で、何れもクハ若しくはサハとして編成の増強と車両不足の解消に。数年後に寿命が来ると、車両の台枠(16m級台枠の一部は20mまで引き伸ばし改造)と台車だけ再利用。所沢工場にて製造した車両の基礎として再生した、抜け目の無さを発揮。
台枠16mを5両を20m4両足りないのは武蔵野鉄道や旧西武鉄道木造車とかの台枠潰して延長か国鉄式
富山地鉄に渡ったレッドアローの因果が作られた感
戦災車、事故車、車籍流用、手持ち部品など、払下げや中古品なら問題ありません
ピストルは強盗には、不可欠な飛び道具。
もう62歳のジイジです。子供のころ外観の特徴から551系と601系が大好きでした。
電動機が吊り駆け駆動だったのは西武鉄道が車両にお金をかけられなかったと言う事だけでは無く、何と言っても部品が山ほどあったと言う事も背景として存在したりします。当時から電動機と言う物は効果だったと言う事や63型が桜木町事故で73型になった事もあり近い将来新型通勤電車が出て来ると言う事も想像されていた事から国鉄から大量に廃車になる事が確定していた事から入手しやすく、その後地方私鉄や系列の鉄道へ売却や譲渡が可能であったと言う事も電動機に関しては旧型国電の物が使用されていたと言う背景が存在していたりします。因みに西武で採用されたハニカム式扉と言う物は現在でも使用されている物だったりします。(アムル妻マチルダ筆)
突っ込みどころ満載で、古い写真がみつからなかったようですが、戦後の西武の歴史動画としては面白いかと思います。魔改造編は何が出てくるのか楽しみです。「伝説の2M4T編成」は確定だと思いますが、他のコメントにも出ている「元南海の気動車改4扉気動車」も入るかな?西武2000系の説明はこじつけ感がありますが、1977年頃には堤康二郎、五島慶太共に一線を退いているので「箱根戦争」「伊豆戦争」時代の時ほど対決関係でもなかったかと思います。
551系にも一時期1編成のみ2M4T編成があり クモハに501系と同じMT30を搭載して対処していましたね。同編成は後に中間の片方のサハ1571をMT30搭載のモハ571に改造して 結果『最強力吊り掛け式6両編成』となりました。
相模鉄道とかには似てる感じか足が遅い電車は
西武にもいろいろ歴史があったんだなって思います。各社、戦後の車両不足を補うためにいろんな工夫をしていることはこのチャンネルで知ることが多いです。しかし、ヤケ電とはさすが堤さんらしい。タイトルがヤケ電ではなくヤケ酒に見えましたが笑。
cu72系列のクーラーはなんと2005年最終製造の20000系まで採用されていたのですから驚きですね。
601系・701系とカルダン車が続々と増備されるもののブレーキ装置などが旧型(自動ブレーキ)のため「カルダン駆動の旧型車」でしたね。でも,おかげでどの車両とも連結可能で、吊り掛け車とカルダン車の併結なんて日常でした(701系はその後の改造で完全に新性能化)また当時の西武鉄道の辞書には編成美という言葉がなかったため、片開き扉、シル・ヘッダー、リベットのクハと、国鉄101系もどきの両開き扉のクモハ(確か451)で2連を組んだりもしていました。良くも悪くもこれが西武だと思ってました。
クモハ451とクハ1411の2連は あたかも国鉄101系と20M級戦前型旧型国電を背中合わせに連結したようでしたね。そのクハ1411は 最後まで片隅運転台で 沿線の子供達には前面展望の出来る電車として人気がありました。
@@toriri-service 様お久しぶりです。返信ありがとうございます。さて、どこかの鉄道雑誌で、先頭車は旧型国電みたいな車両····その車両を紹介した記事だった。でもよく見ると後ろに続く2両は451系みたいな両開きの車両(551系かも)、4両目は見えなくてどんな車両か不明。当時の4連はMTTMが基本だから旧型車両がクモハ、101系風の(3扉ですが)両開きの中間車がサハと思います。記憶では、この先頭車を「木南製の車両は品がある」とコメントしてました。ともかく西武はこうした車体の全く異なる車両で編成を組んでいました。
@@米田昌昭 さんそれおそらくは元武蔵野のモハ5570でしょうね。武蔵野鉄道が最後に増備した自社車両(木南車輌製)で 昭和30年代は 451系の付随車(サハ1471)を中間に挟んだMcTTMc編成で使われた事もありました。1964年にクモハ301形となって間もなく2扉クロスシートに魔改造され『バタデン』に譲渡され 一時期特急運用に充てがわれ 90年代半ばまで 生き永らえました。
今は70歳を過ぎた爺ですが、そのクハ1411の運転室から反対側の壁面に向かって取り付けられたクロームメッキの長い横棒につかまって前面展望を楽しんだ記憶があります。
残念感がなかった「新車」は801系だったかなぁ。最初から空気バネの台車を履いていて、車体側面の雨どい位置が上がって埋め込み式でスタイルが良かったです。同様の埋め込み式雨どいになった411系(?)を増結して6両になった編成は、側面上部の赤系色の帯の位置が1本にそろってカッコよく思えました。
今回はオシャレなことは抜きに再生の可能性に注目して、視聴させていただきました。肥やしが効いていました。❤☆☆☆『黄金列車』を引き受けただけのことはあります。『西武中古車センター!』部品の標準化のおかげで「VHS vs.β(ベータ)」みたいなことが起こなかったことはさすがでしたね。😊
西武は性能は低かったけど車体が近代化されていたので、見た目は他社と比べても遜色なかったと思います。むしろ東武鉄道の方が7800系を半鋼製で作り続けたので、西武より性能は良かったが、乗ると古めかしく思えました。
7800系は1961年まで。ロクサン形更新車の7300系に至っては1964年まで 屋根や床が木製の『在来工法の半鋼製車体』で造られましたね。1961年頃といえば 阪急2000系『オートカー』や東武1720系『DRC』も絶賛増備中で『ナニワ工機』では それら最新式の電車と旧態依然とした東武7800系を同時に造っていた事になります。やはり20年も使うと車体の傷みも酷くなり 7800系は こちらも『見せかけだけの新車』5000系列に更新されましたが 車体そのものは8000系冷房車と同じだったから 走行音の喧しさと乗り心地の固さ以外 乗客から不満は出なかったようです。
冷房化率の高さは素晴らしく確か関東で100%を一番で達成したのは西武だったと思います、対する東急は下から数えた方が早くクーラーの箱だけ乗せたインチキ冷房車が沢山ありました冷房化率100%になったのは2000年頃ではないでしょうか。後に東急から北陸鉄道に売られた旧7000系の台車や運転機器は西武の701系の物らしいですがどこで改造されたかは存じません。
@@N--jv3goさん 昭和後半の夏の東横線 早いが暑い急行か、遅いが涼しい各停かにして、上手く乗客を分散させていた様に覚えています。
京成や東武にもあったが西武ほど過激ではなかった
京成は台車改造と車体縦切断で充分過激かと……
@@hisakounosuke2474 京成は後に協力企業の大栄車輛に委託して全金属製の近代的車体に更新したものが多かったですね。
魔改造の先駆者か🤣🤣🤣
311系17㍍車の事ですね。昭和40年代に新宿線で実見、乗車していました。引退後に上石神井車輛管理所にて、2輛のクモハ、1輛のクハが長らく放置されていましたが、いつの間にか姿を見なくなりました。弘南鉄道に譲渡された車もありましたね。最晩年に3輛編成を組んでいた351系の中間車サハ1311は、これらクハ1311の生き残りで、中間車改造を受けて、生き長らえました。
❤ほんま、えーテーマ😂平成鐡郎さん🎉😊
ありがとうございます😊
この時代の西武の鉄道車両が遅かったのは、もうひとつ理由があります。この時代の通勤電車の場合、多くの車両が、十両編成で6М4Tと呼ばれる編成で、国鉄101系、103系等が代表選手になりますが、西武では、4M6Tでした。コレは、表題の「焼け電」をベースとした為に種車のM車の絶対量が少なく、苦肉の策だった様です。実際、対外的には、「省電力編成」等と言っていた様ですが、電動機を国鉄113系、115系の様に増強すれば可能ではありますが、いかんせん旧型国電の電動機、それを標準より少なく搭載する理由ですから、絶対出力の低さはどうにもならず、正に駅間で最高運転速度に達するのは、一瞬でした。
見映えはいいが、肝心の足下は😥そこが西武。堤さんも鉄道業にもっと力入れてくれば。と思った方も多いのでは。土地転がしもとい不動産事業に心血を注ぎ、後に世界有数の億万長者になったのは、凄いですが。話がずれてすみません😢⤵⤵
初のカルダン駆動車701系は付随台車が国鉄払い下げ品のイコライザ式でしたね。ブレーキも吊り掛け駆動の旧型車と混結できるようにい自動空気ブレーキというチグハグさ。
贔屓目に言えば、私鉄初の10輛運転を行う程に、輸送量が激増した西武、一輛でも多くとの要望に応えるべく「質より量」の選択で手軽に、安価に、大量に調達可能な中古電装品を使用した経緯があります。結果的に、大量の車輛を増備出来たので、結果オーライだと思っております。
かつての西武の車両は国鉄や他の私鉄に比べてお世辞にも優秀とはいえませんでした。そのため西武電車好きは鉄ヲタからもバカにされ、変人扱いされて肩身の狭い思いをしたものです。こうやって皆さんといろいろお話できて楽しく過ごさせていただき、ありがとうございました。
西武所沢工場はこれだけ優れた技術を持ちながら、なぜ車両メーカーとして独立させなかったのでしょう?もっとも昨今の鉄道車両の需要を考えたら、工場を法人化しなかったのは正解と言えますが。
まあ動力がツリカケでもカルダンでも、乗客はボディが綺麗で新しいなら満足ですからね。今の武蔵丘には所沢工場のノウハウは残ってないんですかね?
所沢工場は2000年に閉鎖。工場晩年には鋼製車輛新製も、東急車輛に発注していましたから、車輛製造技術は、閉鎖より、かなり前から無くなりつつあったと思います。黄色い電車のお守りを出来る検修陣も、中高年中心だと思います。
「ピストル堤」。久しぶりに聞いた😄これに対して、ライバルの五島慶太は「強盗慶太」ですね。
焼け電と言えば東急碑文谷工場も紹介して欲しいですね
17:46動画中に少し出てくる弘南鉄道3600系は元東急に在籍していた車両でこれも焼け電再生車です、碑文谷工場再生車だそうです。現在の学芸大学から都立大学間の高架を下りた左側のゴルフ場の所にあったそうです。
・・・確か、東急の東京横浜工場(東急車輌?)で、戦災で罹災した井の頭線の電車を修繕したと聞いています。
車両製作は、やっぱりメーカーで製作費の節減また広大な工場など維持がたいへんですね、もちやもちで社会がまわりますね。(その会社のいろは、必要)ですね。
>野村氏は1979年当時に西武球団に在籍ちょうどこの時期だと思いますがアニメ映画「がんばれタブチくん」で不調の主人公タブチに時の監督は「スタンバイ万全!」と盛んにアピールする同じくキャッチャーノムラと交代するか悩んでいたのがヤケに印象的でした。調べるとその当事者は根本陸夫監督ですね。彼こそが「元祖・再生工場」だったのかな?元ホークス三冠王と元タイガースホームラン打者。
がんばれタブチくん 懐かしいですねやっぱりヤクルトのヤスダのキャラが最高でした。ヒロオカ監督に魔球を披露しても何食わぬ顔。コミック本にハマりましたがその中でタブチとフルサワが阪神電車にトレードを恨んで置き石をしているとき、タブチが置き石をしようとしたとき、フルサワから そこはエナツさんの縄張り と言っていたことを思い出しました。思わず爆笑しました。いまなら完全に大炎上ですね
@@heitetsu4649 さん。広岡監督は根本さんの後ですね。のちに私は埼玉県に移り住みごく近所にテレビ埼玉があり、たまにやる所沢の中継を見ましたが、お客ガラガラでしたね。当時はタブチくんの頃よりもだいぶ強かったはずですが??「強い=人気」にならないのが日本プロ野球の摩訶不思議ですね。ちなみに後楽園・日ハム中継も控えめにありました。テレビ埼玉にとっては地理的には後楽園のほうが近いです。
@@ああやあ-q5h 当時ヒロオカ監督はヤクルトだったと思います。ヤスダはヤクルト時代ですが、なぜかタブチくんと友達でした、ネモト監督も漫画で出ていました。クラウンから身売りされたばかりなのでクラウンの監督がネモト監督だったからですね。西武球場は当時、最新式の球場でした。西武発足時は松沼兄弟、森繁和など堤義明氏命令でかなり補強しました。阪神からは真弓、竹之内、竹田、若菜を放出し、古沢、田淵を獲得。野村もロッテから補強しました。野村が入ったのはコーチ的役割があったと思います。
西武から無くなった釣り掛け成分を流山線や東武野田線で補いに行ってたなぁ〜
総武流山電鉄(当時)には 元武蔵野のモハ1001+クハ52元(旧)西武のモハ1002+クハ55その後 元(2代目)501系の1200形『流星』『流馬』『銀河』『若葉』クモハ551+クハ1651の1200・1300形『なの花』『あかぎ』もありさながら『西武流山電鉄』といった様相でしたね。野田線は 5000系列は よく効く冷房付きだったから 夏も快適な電車でした。
24:04 その頃には集めた技術者も次々と定年を迎えていたので徐々に東急へシフトしても問題なかったのでは?
こんにちは。以前の西武の通勤車はグローブ型ベンチレーターを採用していて国電のような野暮ったさを感じましたが国鉄と同じ部品を使用することでコストを抑えるメリットがあるのですね。現代はJR東日本の通勤車ベースの車両が民鉄他社でも採用されていて時代を先取りしていたのですね。
さすがはケ○!失礼、節約好きな堤さんの会社です。
拝見しました。すみません。先にダメ出しから。501系は初代と2代目の写真を間違えてます。先に写真が出たクモハの戸袋窓がHゴム支持で扉間の窓が5枚ある方が2代目です。(後に写真が出た2両編成の 扉間の窓が4枚で戸袋窓にも桟が入ってる方が初代)9:20〜551系と紹介されているのは全て601系のクハです。形は同じですが 551系は先頭車が前パンのクモハで ワイパーが上部取り付け。601系は先頭車がクハで ワイパーが下部取り付けという違いがあります。11:53 これは釣り合い梁台車ではありません。伊豆箱根鉄道へ譲渡した際に履き替えた電動車用FS342です。(その前の601系の写真をそのままアップにすれば良かったのに…。)12:50 黄色い電車は411系の更新後の401系です。(12:59 のモノクロ写真は411系で そっちだけを使えば良かったのに…。)18:55 これもST式の解説図ではありません。TR25A空気ばね改造台車もそうですが こちらで貼り付けた写真を使って欲しかった。20:00 >この『MT54』は冷房化・電磁直通ブレーキ化された701系列の増結用として採用しました。更に1978年より411系をカルダン駆動・電磁直通ブレーキ化とアップグレード改造した『401系(2代目)』にも採用しました。違いますよ。701系列の増結用として 1978年より411系を冷房・カルダン駆動・電磁直通ブレーキ化とアップグレード改造した『401系(2代目)』にも採用されました。とネタには書いておいたのですが…。文章が 昔の『拝島・多摩湖行き』の萩山駅のように分割されちゃってます。折角ネタを上手くナレーションに纏めて戴いたのに そこの所沢もとい 所 は申し訳ありませんが 残念な部分でした。あとお詫びもひとつ DT21台車は 国鉄初のカルダン駆動台車の所沢(しつこい!)所に『電車用』と入れるのを失念しておりました🙇💦わざわざ所沢までも出向いて戴いたのですね。ありがとうございます。次回も期待しています。
今回もあちこちの齟齬があり失礼致しました。あまりにも同じような類似車両が多かったためWikipediaで形式を確認しながら進めたのですがWikipedia 上に写真がないのでらPinterestを駆使して確認作業をしたのですがそれでも齟齬がでたのでお許しください。西武は阪神、阪急と違い幼少期からの馴染みがないため古い車両は資料ベースにならざるを得ません。あといただいた文が、少し長いので視聴者様にわかりやすいように句読点をおいて分割したり要約したのですがそこてもれや間違いがでた思います。ST戸閉機構も文しかなくこれもピンタレストや検索画像で出てきたもののそれらしいものです。基本的にはとりり様からいただいた文はそのままにしたはずです。それ以上はわたしの能力不足もありますが鉄道は本業と違い趣味なので私なりには楽しんでおりますので多少の齟齬はご容赦ください。よろしくお願い致します
西武の電車は、車体以外は国鉄と同じ部品ばかりで新技術導入に積極的でなく、面白みがないと若いころは思っていました。この頃は、枯れた技術を使い倒すという考え方も理解できるようになりましたが、ううむ、でもやっぱり面白くはないな。(あはは)
面白すぎ鉄道ビジネスカジュアル最高
西武は63や運輸省規格型はないですだからそこでの地方私鉄譲渡はないです
西武は63の割り当ては辞退したけど、63の事故車3両(うち1両は三鷹事件被災車)を払い下げてもらい、これを叩き直して初代401系にしたことがあります。クモハ1両、クハ2両、不足するクモハは自社製造、元が63だったため、当時の西武としては珍しく20m4扉車でした。扉数が違うので本線運用に制約があり、主に2連で国分寺線で使われていました。
63割当、運輸省規格型、コレを受け入れたら見返り供出しなきゃいけませんしかしその代わりに借受モハ50を譲渡してもらったことはありますどうやら中古品扱いのようで、供出はしてません払下げ、中古品は供出対象にはならなかったようです
新宿線で通学で乗ることがありました。当時、4ドア車はこれだけで前面の形も記憶があるので間違いないと思います。
4:19 この構図でこの写真がとれるスポットは一か所しか存在しないのですが、レアですね。この場所が使えて、かつ551系の写真が撮れた期間となると昭和53年~54年あたりしかないと思います。
9:06 広告「早稲田ゼミナール」
これは高田馬場ホームかな?お隣も予備校ですし。早稲田のゼミナール/学院/予備校。このうち早稲田予備校はなぜか名古屋にもありました。そういえば代々木も有名なゼミナールに学院もありましたね。
導入予定の中古車両は総合車両製作所のサスティナではなく、車体は無塗装、制御装置はVVVF架装のサスティナブルな車両でなないですか?
西武所沢工場と言えば関東鉄道向けの気動車魔改造も請け負っていたような覚えがあります。
よくこれだけの古い写真をお持ちでいらっしゃいましたね。
西武鉄道の戦後の歩みが、良くわかる映像でした。今日の西武の隆盛はこのような歴史の上にあるのですね。
足回りが吊り掛けの最終期のモーターと吊り掛け軸バネ台車だが車体が半鋼製車体の7800系と
更新7300系と西武吊り掛け赤電比較したら果たして
@@tike2435 様、東武7800はその後車体更新して5000系列になりましたから西武とどっこいどっこいでは?西武にはなかった吊りかけ冷房車でしたし。ある意味西武よりも吊りかけを第一線で使っていたともいえます。
横浜線や相模鉄道本線や南武線みたいな感じか西武鉄道池袋線は
模倣の使い方が気になるなぁ
悪意はないのだろうけど…
なんかイラっとしたな
当時の所沢工場は銚子電鉄の車輌改造
上信電鉄の車輌新造、南海気動車の扉増設改造などしていました。
関東鉄道の魔改造車も所沢工場の作品ですね。
国鉄好きの西武さん、とはいつぞやの鉄道雑誌の記述。
西武の20m級4ドア車である63系受け入れ拒否の話はかなり尾ひれがついています。西武の20m車導入は1950年のクハ1411形からで、それまでは17m級の車両が入線しておりました。本線系統でも地方鉄道法準拠2,744mm幅の車両限界であった当時2,800mm幅の焼け電を導入する改修すら大工事で、同じ63系電車を受け入れた東急は地方鉄道法規格の旧自社線内では走行できず、同じく名鉄は旧愛電区間に使用を限定されました。20m車を走らせる地上設備改修にはさらに4年掛かりとなり、63系2両を受け入れる計画を蹴った上で代替として17m級の50系2両を受け入れたに留まりました。
第一、63系受け入れ後見返りに車両製造面で優遇を受けた東武が40両入線11両放出、山陽で同20両、4両と投入数と放出数は一致しておらず、工場設備投資と復旧費を持った西武よりも身銭を切らぬ姿勢でありました。
63系自体も4扉であったことから後に3000系を投入するほど3扉に愛着のある西武には持て余す車両でした。1953年国鉄の事故車3両を復旧、電動車1両を自力で製造し初代401系として63系電車を導入しましたがこの4両が最後で、72系相当の更新を受ける事もなく支線区に押し込まれたうえで1973年早々に鬼籍入りしました。
車両放出に対する懸念はあったにせよ、西武としては20m4扉2,800mmの63系電車という存在がお節介だったのです。
63辞退はありましたが、借受モハ50を譲渡してもらったことはあります、中古品だから車両供出はなかったようです
63新車や運輸省規格型を入れたら見返り供出しないといかんかったし
昭和40年代、相鉄が国電の払い下げ車の2000系をアルミ製車体の2100系に改造する際に余った車体を所沢車両に持ち込み、手持ちの機器を組み合わせて伊豆箱根鉄道(大雄山線)や三岐鉄道等に譲渡してました。
その頃はまだ西武にも旧国鉄車両の371系等も在籍しており、相鉄2000系自体、1度東急車両や東横車両で車体を更新していました。
三岐鉄道150形は 所沢工場製の新製車体を載せた物と 相鉄2000系の旧車体をリサイクルした物がありましたね。
同鉄道には 所沢工場で小田急2100形の車体をリサイクルした120形もあり 1970年代から 西武とは縁のあった会社でした。
@@toriri-service さん
三岐鉄道150形の車体新造車は、昭和47-48年製だったから平成4年での廃車はちょっと勿体無い気もしました。
とはいえ、大手私鉄の中古車もふんだんにあったから、あえて大きな改造してまで譲渡先を見つけるほどには至らなかったのでしょう……
久しぶりに見た、永久保存版と言ってもいいような秀作動画です。西武鉄道の戦後の稀有な邂逅の軌跡をまとめています。
日本の鉄道界に、独特の大きな足跡を残した、かつての西武所沢工場は、所沢駅の西200Mくらいのところにありました。所沢駅からこの工場まで、引き込み線が伸びていました。
そのちょうど中間に、埼玉県道337号線所沢停車場線の道路があり、2000年頃のつい最近まで、その交差部には踏切がありました。よくここをクルマやバイクで通り過ぎた覚えがあります。
現在は、工場も踏切もなくなりました。工場跡は更地になり、地元では再開発に沸いています。どんな施設ができるのか楽しみです。
西武線の電車の連結面の扉のわきの上部辺りには、「西武所沢工場」の銘板がついている場合があり、往時の偉業を偲ぶことができます。
もしこの工場が、今も存続していたならば、当時と同様の木造の吊り掛け車のレプリカ版でもつくって走らせてほしい なんて思ったことがあります。
西武鉄道開業100周年以上でもあるし、ひと昔前までの西武鉄道には、多くの木造の吊り掛け車が走っていたからです。
ありがとうございます。工場があった頃は他社の車両(小田急)や西武車両の中古譲渡車両(流鉄、近江鉄道?)が留置されている写真なども見かけました。
跡地はショッピングセンターができるようです。
www.watch.impress.co.jp/docs/news/1451325.html
西武所沢で製造(扱い)。
更新工事で魔改造。
それを近江で更に魔改造、、、
今は昔話。
今や、新造車おろか、かつて箱根戦争で直接的に争った小田急(間接的には東急)のお古を譲り受けるまでの転落っぷり。
やっぱ西武は凄いな~
懐かしいです♪
高校1年の朝の通学時、授業に普通に間に合う池袋8時前発の準急だと、確か保谷で切り離す2両が木の床のボロだったなぁ。
アレは何系だったんだろうか・・・
駅から学校までダッシュすれば何とかの、池袋8時過ぎの準急だと、冷房搭載の101系でだったなぁ。
夏場は非冷房→普通に徒歩か、冷房→ダッシュで悩んだなぁ~。昭和50年前半の話しです。😄
クハ1411だと思います。
動画の初めの方の『ヤケ電』由来の物と国鉄木造国電の台枠(シャシー)をベースに所沢工場で 戦前形国電と同じ車体を拵えた物の2種類がありました。
運転台が貫通扉よりも左側 片隅にしかなかったでしょう?
西武が目を付けたのは戦災省電に加えて木造省電も。
こちらは老朽化が酷かったので、二束三文で大量に入手。
運用に差し支えないレベルまで整備した上で、何れもクハ若しくはサハとして編成の増強と車両不足の解消に。
数年後に寿命が来ると、車両の台枠(16m級台枠の一部は20mまで引き伸ばし改造)と台車だけ再利用。
所沢工場にて製造した車両の基礎として再生した、抜け目の無さを発揮。
台枠16mを5両を20m4両
足りないのは武蔵野鉄道や旧西武鉄道木造車とかの台枠潰して延長か
国鉄式
富山地鉄に渡ったレッドアローの因果が作られた感
戦災車、事故車、車籍流用、手持ち部品など、払下げや中古品なら問題ありません
ピストルは強盗には、不可欠な飛び道具。
もう62歳のジイジです。子供のころ外観の特徴から551系と601系が大好きでした。
電動機が吊り駆け駆動だったのは西武鉄道が車両にお金をかけられなかったと言う事だけでは無く、何と言っても部品が山ほどあったと言う事も背景として存在したりします。
当時から電動機と言う物は効果だったと言う事や63型が桜木町事故で73型になった事もあり近い将来新型通勤電車が出て来ると言う事も想像されていた事から国鉄から大量に廃車になる事が確定していた事から入手しやすく、その後地方私鉄や系列の鉄道へ売却や譲渡が可能であったと言う事も電動機に関しては旧型国電の物が使用されていたと言う背景が存在していたりします。
因みに西武で採用されたハニカム式扉と言う物は現在でも使用されている物だったりします。
(アムル妻マチルダ筆)
突っ込みどころ満載で、古い写真がみつからなかったようですが、戦後の西武の歴史動画としては面白いかと思います。魔改造編は何が出てくるのか楽しみです。「伝説の2M4T編成」は確定だと思いますが、他のコメントにも出ている「元南海の気動車改4扉気動車」も入るかな?西武2000系の説明はこじつけ感がありますが、1977年頃には堤康二郎、五島慶太共に一線を退いているので「箱根戦争」「伊豆戦争」時代の時ほど対決関係でもなかったかと思います。
551系にも一時期1編成のみ2M4T編成があり クモハに501系と同じMT30を搭載して対処していましたね。
同編成は後に中間の片方のサハ1571をMT30搭載のモハ571に改造して 結果『最強力吊り掛け式6両編成』となりました。
相模鉄道とかには似てる感じか足が遅い電車は
西武にもいろいろ歴史があったんだなって思います。各社、戦後の車両不足を補うためにいろんな工夫をしていることはこのチャンネルで知ることが多いです。しかし、ヤケ電とはさすが堤さんらしい。タイトルがヤケ電ではなくヤケ酒に見えましたが笑。
cu72系列のクーラーはなんと2005年最終製造の20000系まで採用されていたのですから驚きですね。
601系・701系とカルダン車が続々と増備されるもののブレーキ装置などが旧型(自動ブレーキ)のため「カルダン駆動の旧型車」でしたね。
でも,おかげでどの車両とも連結可能で、吊り掛け車とカルダン車の併結なんて日常でした(701系はその後の改造で完全に新性能化)
また当時の西武鉄道の辞書には編成美という言葉がなかったため、片開き扉、シル・ヘッダー、リベットのクハと、国鉄101系もどきの両開き扉のクモハ(確か451)で2連を組んだりもしていました。
良くも悪くもこれが西武だと思ってました。
クモハ451とクハ1411の2連は あたかも国鉄101系と20M級戦前型旧型国電を背中合わせに連結したようでしたね。
そのクハ1411は 最後まで片隅運転台で 沿線の子供達には前面展望の出来る電車として人気がありました。
@@toriri-service 様
お久しぶりです。
返信ありがとうございます。
さて、どこかの鉄道雑誌で、先頭車は旧型国電みたいな車両····その車両を紹介した記事だった。
でもよく見ると後ろに続く2両は451系みたいな両開きの車両(551系かも)、4両目は見えなくてどんな車両か不明。
当時の4連はMTTMが基本だから旧型車両がクモハ、101系風の(3扉ですが)両開きの中間車がサハと思います。
記憶では、この先頭車を「木南製の車両は品がある」とコメントしてました。
ともかく西武はこうした車体の全く異なる車両で編成を組んでいました。
@@米田昌昭 さん
それおそらくは元武蔵野のモハ5570でしょうね。
武蔵野鉄道が最後に増備した自社車両(木南車輌製)で 昭和30年代は 451系の付随車(サハ1471)を中間に挟んだMcTTMc編成で使われた事もありました。
1964年にクモハ301形となって間もなく2扉クロスシートに魔改造され『バタデン』に譲渡され 一時期特急運用に充てがわれ 90年代半ばまで 生き永らえました。
今は70歳を過ぎた爺ですが、そのクハ1411の運転室から反対側の壁面に向かって取り付けられたクロームメッキの長い横棒につかまって前面展望を楽しんだ記憶があります。
残念感がなかった「新車」は801系だったかなぁ。最初から空気バネの台車を履いていて、車体側面の雨どい位置が上がって埋め込み式でスタイルが良かったです。同様の埋め込み式雨どいになった411系(?)を増結して6両になった編成は、側面上部の赤系色の帯の位置が1本にそろってカッコよく思えました。
今回はオシャレなことは抜きに再生の可能性に注目して、視聴させていただきました。肥やしが効いていました。❤☆☆☆『黄金列車』を引き受けただけのことはあります。『西武中古車センター!』部品の標準化のおかげで「VHS vs.β(ベータ)」みたいなことが起こなかったことはさすがでしたね。😊
西武は性能は低かったけど車体が近代化されていたので、見た目は他社と比べても遜色なかったと思います。
むしろ東武鉄道の方が7800系を半鋼製で作り続けたので、西武より性能は良かったが、乗ると古めかしく思えました。
7800系は1961年まで。ロクサン形更新車の7300系に至っては1964年まで 屋根や床が木製の『在来工法の半鋼製車体』で造られましたね。
1961年頃といえば 阪急2000系『オートカー』や東武1720系『DRC』も絶賛増備中で『ナニワ工機』では それら最新式の電車と旧態依然とした東武7800系を同時に造っていた事になります。
やはり20年も使うと車体の傷みも酷くなり 7800系は こちらも『見せかけだけの新車』5000系列に更新されましたが 車体そのものは8000系冷房車と同じだったから 走行音の喧しさと乗り心地の固さ以外 乗客から不満は出なかったようです。
冷房化率の高さは素晴らしく確か関東で100%を一番で達成したのは西武だったと思います、対する東急は下から数えた方が早くクーラーの箱だけ乗せたインチキ冷房車が沢山ありました冷房化率100%になったのは2000年頃ではないでしょうか。後に東急から北陸鉄道に売られた旧7000系の台車や運転機器は西武の701系の物らしいですがどこで改造されたかは存じません。
@@N--jv3goさん 昭和後半の夏の東横線 早いが暑い急行か、遅いが涼しい各停かにして、上手く乗客を分散させていた様に覚えています。
京成や東武にもあったが西武ほど過激ではなかった
京成は台車改造と車体縦切断で充分過激かと……
@@hisakounosuke2474
京成は後に協力企業の大栄車輛に委託して全金属製の近代的車体に更新したものが多かったですね。
魔改造の先駆者か🤣🤣🤣
311系17㍍車の事ですね。昭和40年代に新宿線で実見、乗車していました。
引退後に上石神井車輛管理所にて、2輛のクモハ、1輛のクハが長らく放置されていましたが、いつの間にか姿を見なくなりました。弘南鉄道に譲渡された車もありましたね。
最晩年に3輛編成を組んでいた351系の中間車サハ1311は、これらクハ1311の生き残りで、中間車改造を受けて、生き長らえました。
❤ほんま、えーテーマ😂平成鐡郎さん🎉😊
ありがとうございます😊
この時代の西武の鉄道車両が遅かったのは、もうひとつ理由があります。
この時代の通勤電車の場合、多くの車両が、十両編成で6М4Tと呼ばれる編成で、国鉄101系、103系等が代表選手になりますが、西武では、4M6Tでした。
コレは、表題の「焼け電」をベースとした為に種車のM車の絶対量が少なく、苦肉の策だった様です。実際、対外的には、「省電力編成」等と言っていた様ですが、電動機を国鉄113系、115系の様に増強すれば可能ではありますが、いかんせん旧型国電の電動機、それを標準より少なく搭載する理由ですから、絶対出力の低さはどうにもならず、正に駅間で最高運転速度に達するのは、一瞬でした。
見映えはいいが、肝心の足下は😥そこが西武。堤さんも鉄道業にもっと力入れてくれば。と思った方も多いのでは。土地転がしもとい不動産事業に心血を注ぎ、後に世界有数の億万長者になったのは、凄いですが。話がずれてすみません😢⤵⤵
初のカルダン駆動車701系は付随台車が国鉄払い下げ品のイコライザ式でしたね。ブレーキも吊り掛け駆動の旧型車と混結できるようにい自動空気ブレーキというチグハグさ。
贔屓目に言えば、私鉄初の10輛運転を行う程に、輸送量が激増した西武、一輛でも多くとの要望に応えるべく「質より量」の選択で手軽に、安価に、大量に調達可能な中古電装品を使用した経緯があります。
結果的に、大量の車輛を増備出来たので、結果オーライだと思っております。
かつての西武の車両は国鉄や他の私鉄に比べてお世辞にも優秀とはいえませんでした。そのため西武電車好きは鉄ヲタからもバカにされ、変人扱いされて肩身の狭い思いをしたものです。こうやって皆さんといろいろお話できて楽しく過ごさせていただき、ありがとうございました。
西武所沢工場はこれだけ優れた技術を持ちながら、
なぜ車両メーカーとして独立させなかったのでしょう?
もっとも昨今の鉄道車両の需要を考えたら、
工場を法人化しなかったのは正解と言えますが。
まあ動力がツリカケでもカルダンでも、乗客はボディが綺麗で新しいなら満足ですからね。
今の武蔵丘には所沢工場のノウハウは残ってないんですかね?
所沢工場は2000年に閉鎖。工場晩年には鋼製車輛新製も、東急車輛に発注していましたから、車輛製造技術は、閉鎖より、かなり前から無くなりつつあったと思います。
黄色い電車のお守りを出来る検修陣も、中高年中心だと思います。
「ピストル堤」。久しぶりに聞いた😄これに対して、ライバルの五島慶太は「強盗慶太」ですね。
焼け電と言えば東急碑文谷工場も紹介して欲しいですね
17:46動画中に少し出てくる弘南鉄道3600系は元東急に在籍していた車両でこれも焼け電再生車です、碑文谷工場再生車だそうです。現在の学芸大学から都立大学間の高架を下りた左側のゴルフ場の所にあったそうです。
・・・確か、東急の東京横浜工場(東急車輌?)で、戦災で罹災した井の頭線の電車を修繕したと聞いています。
車両製作は、やっぱりメーカーで製作費の節減また広大な工場など維持がたいへんですね、もちやもちで社会がまわりますね。(その会社のいろは、必要)ですね。
>野村氏は1979年当時に西武球団に在籍
ちょうどこの時期だと思いますがアニメ映画「がんばれタブチくん」で不調の主人公タブチに時の監督は「スタンバイ万全!」と盛んにアピールする同じくキャッチャーノムラと交代するか悩んでいたのがヤケに印象的でした。調べるとその当事者は根本陸夫監督ですね。
彼こそが「元祖・再生工場」だったのかな?元ホークス三冠王と元タイガースホームラン打者。
がんばれタブチくん 懐かしいですね
やっぱりヤクルトのヤスダのキャラが最高でした。ヒロオカ監督に魔球を披露しても何食わぬ顔。コミック本にハマりましたがその中でタブチとフルサワが阪神電車にトレードを恨んで置き石をしているとき、タブチが置き石をしようとしたとき、フルサワから そこはエナツさんの縄張り と言っていたことを思い出しました。思わず爆笑しました。いまなら完全に大炎上ですね
@@heitetsu4649 さん。
広岡監督は根本さんの後ですね。
のちに私は埼玉県に移り住みごく近所にテレビ埼玉があり、たまにやる所沢の中継を見ましたが、お客ガラガラでしたね。当時はタブチくんの頃よりもだいぶ強かったはずですが??
「強い=人気」にならないのが日本プロ野球の摩訶不思議ですね。ちなみに後楽園・日ハム中継も控えめにありました。テレビ埼玉にとっては地理的には後楽園のほうが近いです。
@@ああやあ-q5h 当時ヒロオカ監督はヤクルトだったと思います。ヤスダはヤクルト時代ですが、なぜかタブチくんと友達でした、ネモト監督も漫画で出ていました。クラウンから身売りされたばかりなのでクラウンの監督がネモト監督だったからですね。西武球場は当時、最新式の球場でした。西武発足時は松沼兄弟、森繁和など堤義明氏命令でかなり補強しました。阪神からは真弓、竹之内、竹田、若菜を放出し、古沢、田淵を獲得。野村もロッテから補強しました。野村が入ったのはコーチ的役割があったと思います。
西武から無くなった釣り掛け成分を流山線や東武野田線で補いに行ってたなぁ〜
総武流山電鉄(当時)には 元武蔵野のモハ1001+クハ52
元(旧)西武のモハ1002+クハ55
その後 元(2代目)501系の1200形
『流星』『流馬』『銀河』『若葉』
クモハ551+クハ1651の1200・1300形
『なの花』『あかぎ』もあり
さながら『西武流山電鉄』といった様相でしたね。
野田線は 5000系列は よく効く冷房付きだったから 夏も快適な電車でした。
24:04 その頃には集めた技術者も次々と定年を迎えていたので徐々に東急へシフトしても問題なかったのでは?
こんにちは。以前の西武の通勤車はグローブ型ベンチレーターを採用していて国電のような野暮ったさを感じましたが国鉄と同じ部品を使用することでコストを抑えるメリットが
あるのですね。現代はJR東日本の通勤車ベースの車両が民鉄他社でも採用されていて時代を先取りしていたのですね。
さすがはケ○!失礼、節約好きな堤さんの会社です。
拝見しました。
すみません。先にダメ出しから。
501系は初代と2代目の写真を間違えてます。
先に写真が出たクモハの戸袋窓がHゴム支持で扉間の窓が5枚ある方が2代目です。
(後に写真が出た2両編成の 扉間の窓が4枚で戸袋窓にも桟が入ってる方が初代)
9:20〜551系と紹介されているのは全て601系のクハです。
形は同じですが 551系は先頭車が前パンのクモハで ワイパーが上部取り付け。
601系は先頭車がクハで ワイパーが下部取り付けという違いがあります。
11:53 これは釣り合い梁台車ではありません。
伊豆箱根鉄道へ譲渡した際に履き替えた電動車用FS342です。
(その前の601系の写真をそのままアップにすれば良かったのに…。)
12:50 黄色い電車は411系の更新後の401系です。
(12:59 のモノクロ写真は411系で そっちだけを使えば良かったのに…。)
18:55 これもST式の解説図ではありません。
TR25A空気ばね改造台車もそうですが こちらで貼り付けた写真を使って欲しかった。
20:00 >この『MT54』は冷房化・電磁直通ブレーキ化された701系列の増結用として採用しました。
更に1978年より411系をカルダン駆動・電磁直通ブレーキ化とアップグレード改造した『401系(2代目)』にも採用しました。
違いますよ。
701系列の増結用として 1978年より411系を冷房・カルダン駆動・電磁直通ブレーキ化とアップグレード改造した『401系(2代目)』にも採用されました。
とネタには書いておいたのですが…。
文章が 昔の『拝島・多摩湖行き』の萩山駅のように分割されちゃってます。
折角ネタを上手くナレーションに纏めて戴いたのに そこの所沢もとい 所 は申し訳ありませんが 残念な部分でした。
あとお詫びもひとつ
DT21台車は 国鉄初のカルダン駆動台車の所沢(しつこい!)所に『電車用』と入れるのを失念しておりました🙇💦
わざわざ所沢までも出向いて戴いたのですね。
ありがとうございます。
次回も期待しています。
今回もあちこちの齟齬があり失礼致しました。あまりにも同じような類似車両が多かったためWikipediaで形式を確認しながら進めたのですがWikipedia 上に写真がないのでらPinterestを駆使して確認作業をしたのですがそれでも齟齬がでたのでお許しください。西武は阪神、阪急と違い幼少期からの馴染みがないため古い車両は資料ベースにならざるを得ません。あといただいた文が、少し長いので視聴者様にわかりやすいように句読点をおいて分割したり要約したのですがそこてもれや間違いがでた思います。ST戸閉機構も文しかなくこれもピンタレストや検索画像で出てきたもののそれらしいものです。基本的にはとりり様からいただいた文はそのままにしたはずです。それ以上はわたしの能力不足もありますが鉄道は本業と違い趣味なので私なりには楽しんでおりますので多少の齟齬はご容赦ください。よろしくお願い致します
西武の電車は、車体以外は国鉄と同じ部品ばかりで新技術導入に積極的でなく、面白みがないと若いころは思っていました。
この頃は、枯れた技術を使い倒すという考え方も理解できるようになりましたが、ううむ、でもやっぱり面白くはないな。(あはは)
面白すぎ
鉄道ビジネスカジュアル最高
西武は63や運輸省規格型はないです
だからそこでの地方私鉄譲渡はないです
西武は63の割り当ては辞退したけど、63の事故車3両(うち1両は三鷹事件被災車)を払い下げてもらい、これを叩き直して初代401系にしたことがあります。
クモハ1両、クハ2両、不足するクモハは自社製造、元が63だったため、当時の西武としては珍しく20m4扉車でした。
扉数が違うので本線運用に制約があり、主に2連で国分寺線で使われていました。
63割当、運輸省規格型、コレを受け入れたら見返り供出しなきゃいけません
しかしその代わりに借受モハ50を譲渡してもらったことはあります
どうやら中古品扱いのようで、供出はしてません
払下げ、中古品は供出対象にはならなかったようです
新宿線で通学で乗ることがありました。当時、4ドア車はこれだけで前面の形も記憶があるので間違いないと思います。